非モテサバイバル

相手がいなければどうということはない

大災害からどう生き延びるか


阪神・淡路大震災から20年。震災から学び、未来に備える - Yahoo! JAPAN

阪神・淡路大震災の時は、学生で深夜のガソリンスタンドでのバイト空けに引き継ぎ作業をしていたら、マネージャーがバイト仲間の実家が燃えてるよ!と血相を変えてフロアに駆け込んできたのが印象に残っています。

家に帰ってすぐTVで状況を確認し、家にあった備蓄用のペットボトルの水を2箱すぐに救援物資として送った後、数日後にボランティアとして東灘区に立ちました。

とはいえ、そんなに大した事は出来ず、避難所間の連絡係でひたすら自転車で走り回ったり、炊き出しの列の整理、物資の仕分けなどを行いました。

震災の1ヶ月ほど前に、千葉の山の中で6日間のサバイバル訓練を行ったばかりでした。キツい訓練ではありましたが6日間の訓練程度では大した役に立ちませんでした。

もちろん、心構え的な部分や機材の面で若干の役には立ったかもしれませんが・・・

現地で活躍していたのはやはり自衛隊でした。その他、消防や警察(機動隊?)などに混じって民間組織で機能していたように感じたのは赤十字救世軍でした。

 あのピースボートも確かにいました。

マウンテンバイクかロードレーサーか、高級そうな自転車の集団でのぼり旗、横断幕で存在をアピールしてチラシを配っていたのを覚えています。チラシの内容は見ていません。

ボランティア組織も組織力やリーダーシップなど、様々な面で充分ではありませんでした。

ある日、別の拠点の救援物資の備蓄から「片栗粉」を分けてもらってきて欲しいと言われました。自転車で向かいますが、その拠点でも物資は不足しています。ない旨を報告すると、どこかで買って来れないか?などと言うのです。震災3日目とかに現地入りで、少なくとも1週間は経っていない時期です。コンビニの商品が軒並み品切れの状態である訳は無いのです。備蓄を確認すると片栗粉はあって、それを使えば良いのでは?と言ったらそれは〜〜日後のメニューで使うからダメと。今必要(調理にはいっていて献立を変えられない)であれば、今在庫を使い、今後の献立を変更するなどをすれば良いし、片栗粉などはどうせとろみが薄くなる程度なのですから不足のままでも良かったかもしれません。

そういう奇妙な体験もしました。

現地に入って驚いたのは多くの人が携帯電話のショップに並んで携帯電話を買い求めていた事です。私も帰京後すぐに携帯電話を購入しました。

また、風俗店も営業を再開していました。震災後3日にも関わらずです。まだ水も貴重でお湯をどうやって沸かしていたのかも想像付きませんが、それでも営業していて、利用者が居ました。

まだ、道路をまたぐように倒れたビルや隣のビルに寄りかかるように倒壊していたビルがそのまま残っている状態で、そのビルの下をくぐって目的地まで移動したのを覚えています。宿泊に利用したビルも、壁はひびが入っていて余震のたびに大きく揺れました。持参したラジオを一晩中入れっぱなしで寝ました。

電気は比較的早く普及して、拠点となっていた地域では一部電気が使用できる状態でした。ガスは復旧しておらず、炊き出しはプロパンガスのボンベと屋台で使うような屋外用コンロで行っていました。片付き始めた道路は、ガス会社の工作車がサイレンを鳴らして走り回っている状態でした。

小学生くらいの女の子が一人で立っていて、それでも、どうする事も出来ず、持っていた飴を一握り渡すのが精一杯でした。ありがとうと言って去ってゆくのをただ見送るだけのボランティア最終日でした。あの子ももう、20代後半とかなのですね。

防災関連の記事を書く時は毎回、阪神淡路大震災と東日本大震災のボランティアに携わった記憶が蘇ってきます。いろいろな災害の話を聞くたびに、事前の準備と備えの重要性と、手元に残った防災用品、備蓄、破損・焼失を免れた品々をどう活用するか、などの知識が大事だと思います。また、初撃回避は運が大きく左右するのだなとも、思います。もちろん、その運を事前の準備や知識である程度まではコントロールできるのですが、時に自然の脅威に対しては無力なのだと思い知らされもします。